日々の中卒

誇りと愛。102歳の曽祖母が僕にくれたもの。


昨日、曽祖母が亡くなりました。
102歳6ヶ月の大往生で、棺には100歳の誕生日に政府からもらったお祝い状も入っていました。

火葬が終わり一息つくと、祖母が「思い出すことがたくさんある。」と僕に、はじめて昔の話をしてくれました。

この記事はとっても私的な、祖母から聞いた話や、僕が他界した曽祖母から教わったことを書きます。
この物語は、ある家族の物語であり、ほとんどの方にとっては意味がないものかもしれません。

ただ、この物語を大切に紡いでいる人があなたが生きる時代にいるんやと思い読んでいただけると幸いです。

たくさんの愛を込めて。

海を越えて日本へ

僕の曽祖母は、50年前に先に逝かれた曽祖父と朝鮮半島で出会いました。
そして曽祖父母は、次女であり僕の祖母が6歳の頃に、祖母の姉と船に乗り込み日本へ渡ってきたそうです。

理由は曽祖母は体が悪く、日本で医者に診てもらうためだったそうです。
祖母は当時のことも薄っすらと覚えているそうです。

中でも、祖母の叔母(曽祖母の姉)が祖母と祖母の姉に対して、
「あんたらは行ったらあかん。」
と、強く言ってきたことを鮮明に覚えているそうです。

ただ当初の予定では、曽祖母が医者に診てもらったらすぐに帰るつもりだったそうで、一緒に船に乗り日本へ来ました。

父が死んだ日

当時は第二次世界大戦の真っ只中です。
医者に診てもらったら、すぐに帰るつもりだった予定が激動の時代に振り回され、帰りの目処がたたず、流れ着くままに、京都で朝鮮半島から来た人たちとともに暮らしはじめました。

曽祖父は必死に働いていたそうですが、祖母いわく『極度の貧乏』だったそうです。
そして、祖母家族も含め、出自が朝鮮の人たちは、日本人から奴隷のような扱いを受けていた、と僕の目を見ずに言いました。

そんなある日、祖母は曽祖母から「誰かになにか聞かれたら『父(曽祖父)は死んだ。』と言いなさい。」と言われました。

いつも父は真夜中に帰ってきていたので、意味が理解できなかったそうですが、外に出てみると憲兵が家のまわりをうろついていたので、一気に怖くなったそうです。

そして、その晩。
家財道具一式をトラックに詰みこみ、父(曽祖父)は家を出て行きました。
この日、祖母はかなり動揺したそうですが、祖母たちを追うように翌日、生まれたばかりの妹をおぶった母(曽祖母)に手を引かれ、姉と4人で、「人が詰め込まれた」と形容する汽車に乗り込みました。

家を離れるとき、近所の人が「逃げるんやで。」と言ってたことを不審に思いながら列車に乗り込んだ祖母は、行く先もわからない汽車に何時間も揺られました。

なにが起こっているかさっぱりわからない祖母と姉は、周りが寝付いたときに曽祖母に、どこに向かっているか聞くと
「父(曽祖父)に赤紙が来たから逃げるんや。お姉ちゃんから絶対に離れたらあかんで。」
と言われ、そこから汽車を降りるまで姉と手を繋ぎ続けたそうです。

死を覚悟で京都へ

数時間汽車に揺られ、母(曽祖母)に教えてもらった駅に到着すると父(曽祖父)が待っていました。
祖母と姉は、父が自分たちを捨てたわけじゃないことを知り、父に駆け寄ったそうです。

しかし、肝心の母が駅のどこにもいません。

数時間探したそうですが、やはり見つからず、祖母は姉と泣きながら父のトラックに乗り込りこみます。
トラックに揺られること数時間。
どんどん山奥へ入って行き、着いた先は炭鉱だったそうです。

気になる母(曽祖母)というと、数日後に無事に合流できました。
このあいだの話は、祖母と曽祖母から数十年後に聞いたそうですが、妹を背負った曽祖母は駅に着き、汽車を降りようとしたのですが、あまりの人の多さに降りられず汽車が出発してしまったそうです。

父(曽祖父)は、母(曽祖母)が家に到着するまで、曽祖母を探しに何度も京都に行っていたそうです。
赤紙から逃げていたので、死を覚悟しながらも必死だったそうです。

その頃曽祖母は、遠く離れた次の駅に降り駅で途方に暮れていたところ、奇跡がおきます。
京都で少し前まで隣に住んでいた、岡本さんに出会ったそうです。

岡本さんは出自が同じで、曽祖父より先に赤紙から逃げ、こちらに住んでいたそうで、岡本さんが曽祖父に炭鉱を紹介したそうです。
曽祖母は炭鉱の場所、行き方を教えてもらい、無事に祖母たちと合流できたというわけです。

「この国に神様はいないと思ってたけど、お隣さんと仲良くしてたおかげで、母を看取ることができました。」と祖母は笑ってました。

炭鉱、ダム建設現場、そして

家族揃って炭鉱での生活がはじまり、祖母と姉は、田舎道を2里ほど歩き学校へ通いはじめます。

しかし通いはじめてすぐに、他生徒に出自がバレます。

すると、毎日のように他生徒から追いかけまわされ、学校に行けない状況になりました。
それに、極度の貧乏状態は続いていたこと、弟妹が次々に生まれたことから、祖母や姉は働きに行かなければならなくなりました。

祖母は働きながらも、生きて行くために独学で日本語を毎日勉強したそうです。
この習慣は今でも続いています。

炭鉱では京都での生活同様、出自が同じ人たちと身を寄せて暮らしました。
毎日、稗を食べながらの生活は「モノはなにもないけど、人の温もりが暖かい生活やった。」と祖母は笑います。

その後、炭鉱は閉山し、次はダムの建設現場へ。
ダム建設が終わると、仕事を探して各地を転々としたそうです。

そして、祖母が「最も長く住んだ地」と言う田舎に住み着き、畑や田んぼで作った米を京都駅周辺の闇市で売りながら生活をしました。

当時は米がなかった時代なので、飛ぶように売れたそうですが、その様子をよく思わなかった人たちから、警察に通報され、京都駅に着いたとたんに警察に囲まれ、必死で逃げたこともあったと。

祖母は兄弟姉妹7名と両親2名と、必死に、一生懸命生きてきました。

最高額のお年玉をくれる人

その後、京都に戻った祖母は、僕の祖父と出会い、父を産み、僕が生まれました。
実は、これまで詳細に昔のことを話してくれたのは初めてです。

いつも祖母は僕に「朝鮮って言ったらあかん。」「昔は大変やった。」とだけしか言ってくれませんでしたが、曽祖母が他界したことで、なにかのつっかえが取れたのか、笑いながら、時に俯いて話してくれました。

そんな祖母を育てた、曽祖母は僕にとって「毎年正月に我が家に来る、最高額のお年玉をくれる人」でした。
いつもニコニコして、ずーっと座っている曽祖母は、僕が物心ついた頃には、齢80歳。

なので、ほとんど会話をしたことがありませんし、正直なところ葬式まで曽祖母の下の名前を知りませんでした。
まさに「毎年正月に我が家に来る、最高額のお年玉をくれる人」でした。

子どものころは、お年玉がなによりの楽しみで、最高額をくれる曽祖母は無条件で好きでした。
しかし、いつも同じ服を着て、お世辞にも裕福には見えない曽祖母が、親戚史上最高額をくれるのをいつからか不思議に思っていたんです。

ただ一つだけはっきりしていたのは、僕や姉、妹のことをすごく愛してくれていました。
それは、僕が18歳で少年院から出院し、はじめての正月。

これまでで最高額のお年玉をくれた曽祖母は「おかえり。」と、ニコニコ笑顔で手をさすりながら言ってくれたときに強烈に感じました。

僕は愛されている。

誇りと愛

棺の中の曽祖母は、これまでの苦労が刻み込まれた深い深い皺が、綺麗に死化粧されていました。
102歳6ヶ月生きた、まさに大往生です。

医者に診てもらったらすぐに帰る予定だった家に、ついに帰ることがなく
奴隷のような生活を、家族や近所の人との温もりで助け合いながら
8人の子どもを育て
ひ孫の僕に愛をくれた曽祖母。

僕は、あなたのひ孫であることが誇りです。
たくさんの愛をありがとうございました。

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